2012年6月29日 (金)

秦始皇帝陵

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兵馬俑坑他第3次発掘調査終わる

 2009年から行われていた中国西安の兵馬俑坑と秦始皇帝陵関連遺跡の第3次発掘調査が終わり、先日その結果が発表された。

 Photo_10 今回の調査では1号坑についてはあらたに200㎡の発掘が行われ、また百戯俑坑、文吏俑坑の発掘も行われた。

 新聞報道では1号坑では新たに“盾”“弩弓”“弓を入れる袋”“新たな彩色俑”がみつかったほか、人為的な破壊、焼き打ちの跡が明らかになり、おそらく項羽が行ったのだろうということがわかった、などいろいろな新しい発見があったという。また百戯俑坑や文吏俑坑でも力士俑、無頭の巨人俑などのあたらしい出土があったと報じられている。

 そうした新しい発見もさることながら、最近の兵馬俑坑など秦始皇帝陵に関する新しい動きに注目すべきものがある。

秦始皇帝陵博物院

 まず気になったのは「秦始皇帝陵博物院」が出来たことだろう。

 Photo_11 あらたに発足した「秦始皇帝陵博物院」は「兵馬俑博物館」「百戯俑博物館」「文吏俑博物館」などいろいろな博物館や「始皇帝陵」「始皇帝陵遺跡公園」などの遺跡を包括する一院多館式のミュージアムで、その管理、管轄、調査、保護する地域は西安臨潼、驪山の麓50k㎡に及ぶという。

 よく広さのたとえに甲子園球場何個分という言い方をするが、それを真似て言ってもいいけれど、この例えはいつ聞いてもまったく実感できないわかりにくい例えだから他の類似を上げると、兵庫県の東の端にある尼崎市とほぼ同じ広さである。随分広い。

博物院設立はなぜ

 ところでなぜ「秦始皇帝陵博物院」がつくられたのか。

 ひとつは考古研究の対象の拡大である。

 いままでの調査発掘はどちらかと言えば1号、2号、3号の兵馬俑坑や偶然に発見された皇帝陵傍の陪葬坑が中心に行われて来た。目の前の遺跡を夢中で発掘するのもいいけれど、それではその遺跡の存在理由や、出土品の本当の価値が正しく把握できないだろう。その遺跡がどういう地理的機能的位置にあり、どういう役割を持っているのかをしっかり把握して調査が行われてこそ、その遺跡や出土品の真の価値を明らかにできる。

 始皇帝陵周辺には600を越える陪葬坑や陪葬墓があると言われている。まずはそれら坑や墓の配置、役割などを明らかにすることが遺跡全体を体系的に明らかにするために必要である。考古調査研究対象の拡大のために諸々の始皇帝関連遺跡を総括する博物院が新たに造られたのである。

 始皇帝陵関連遺跡の調査対象拡大と、遺跡の体系的解明のため多くの関連する遺跡を一括管理することはたしかに必要だと、素人の私も思う。

遺跡調査、保護と開発

 第二に始皇帝陵遺跡を包括的に管理、保護するのは経済開発、都市開発による破壊から遺跡を守るためである。

 都市開発と考古発掘の関係は全世界でたびたび問題になっているので、その弊害から遺跡を守るということはよく理解できる。

 臨潼はついこの間までは随分田舎だった。しかし西安市域の拡大が急速に進み、この片田舎にも都市開発の波が押し寄せて来ている。ほっておけば遺跡の周りや、遺跡の上に高層住宅が建ち、商業施設が置かれるようになるかもしれない。そうならないうちに個々の遺構や遺跡だけでなく、関連する遺跡群をまとめて管理、保護しなければならない。それが博物院設立のもうひとつの大きな理由であろう。

遺跡と経済開発

 経済開発との関係も切迫するものがある。

 本来考古調査、考古研究と経済開発とは関係ないはずだが、実際はそうでもない。考古発掘で世紀の大発見でもあるとたちまち観光業界は沸騰するという例は枚挙にいとまがないほどある。そして大発見が周辺地域や国家に多大な経済効果、経済的利益をもたらすことはかぞえきれないほど例がある。現に兵馬俑坑の発見が西安や中国にもたらした経済効果は筆舌に尽くし難い。

 遺跡の発掘が始まると学会より観光業界の方が神経をとがらすのではないかと思う。ときによっては地域の経済界や観光業界の期待や欲望が、考古学会に「金になる発掘」を迫り、学問の側の都合や計画を掣肘し、制約することもあるだろう。

 また遺跡破壊や研究妨害になる観光施設や道路がつくられたりしないとも限らない。そういう経済側からの期待や要求、活動からまだ調査研究のすすんでいない遺跡を守るためにも、遺跡の点在する地域を包括的、全体的に守る必要がある。

始皇帝陵発掘

 Photo_12 気になるもう一つのことは、始皇帝陵そのものの発掘である。

 始皇帝陵はいつ発掘されるのだろう、陵の中が見てみたい、多くの人がそう思っている。始皇帝陵の発掘は100年先だ、ということは風のうわさに聞いているけれど本当にそうなのか。今回の発掘調査の成果発表の際にもメディアからやはりその質問が出されている。

 秦始皇帝陵博物院の曹瑋副院長はこれに答えていう。

 「始皇陵の発掘は、ここ数百年は出来ないだろう」

 秦始皇帝陵遺跡の存在する地域は広く、陪葬体系は大きい。その全体像を把握し、系統的に発掘していくと20年30年というスケールでは済まない。現に兵馬俑坑の発掘はその発見以来38年間行われて来たが、発掘、調査が済んだのは、まだ兵馬俑坑全体の僅か7分の1に過ぎない。そういう現実から考えれば、陵本体の発掘はいつになるのか見当もつかないというのが本当のところだろう。

 第二には保存技術の問題がある。

 発掘の目的の一つは原始情報の確認とその保存である。しかし発掘して外気に晒すと原始情報は失われやすい。兵馬俑に残っている彩色の色など嘘か本当か知らないけれど、掘り出すと5分もすれば色が変わるという。いまの技術では発掘後長く原始情報を保つのはまだ難しいようである。しっかりした保存技術がない限り掘り出したくないというのは学者としては当然だろう。

 兵馬俑の父と呼ばれている袁仲一・前秦兵馬俑博物館館長によれば始皇帝陵の調査は電磁波探査など非破壊的方法で行い、実際に掘って調査をするということはまったく考えていないという。

 つくづく始皇帝陵の大きさ、始皇帝の権力の大きさを実感する。

二世皇帝

 昔、唐の長安城の東南の隅に“曲江池”という大きな池があった。杜甫も詩に詠んでいる。いまはすっかり干あがって池はない。

 大唐芙蓉園の東の道を南へ行くと3環路の少し手前で道が上りになって高みに上がり、芙蓉南路に出る。曲江池の土手だったところかもしれない。

 Photo_13 その高台に高さ5m、直径25mの小さな古墳がある。墓の前に「秦二世皇帝陵」という碑が建っているので、その墓が秦の二世皇帝胡亥の陵であることがわかる。西安の郊外には漢や唐の帝王陵がたくさんあるが、それらとは比べ物にならないほど小さな陵墓である。公開以来30年で6000万人の観光客が訪れた兵馬俑博物館や始皇帝陵と違って、ここにはわざわざ足を向ける人もいない。

 父、始皇帝とはなんという違いだ。

 私は暇なときは自転車で西安の南郊をよく走り回ったが、二世皇帝の陵墓の前を通る時は必ず自転車を降りて墓園に入る道に佇んで頭を下げた。

 胡亥は始皇帝が自分の父だという実感はあったのだろうか。まったく別次元の世界の人間のように思っていたのではないだろうか。お父さんのような皇帝になりたいとも、親父さんのようなでっかい墓をつくろうとも思っていなかったのではないだろうか、という気がする。

 奸臣の陰謀で帝位につき、その奸臣に自殺を迫られた皇帝。暗愚とさげすまれている二世皇帝に私はなんとなく親しみを感じるのである。

 うちの父親も偉大だったからではない。うちの父親は平平凡凡たる人間で、私とどっこいどっこい人である。私が歯が立たないなあと思うのは関電争議を闘い、指導し、いま労働運動、社会運動、環境問題の運動の先頭に立ってがんばっている友人たちである。たまに彼らといっしょになると、自分の暗愚さをつくづく思い、孤独を感じる。だから2世皇帝も孤独だったのだろうなと同情する。

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